戦国時代を経て、江戸時代になり治安も安定し街道や宿場町が整備されていき庶民でも伊勢参りなど旅行に出やすくなりました。江戸時代後期には今でいうガイドブックも出現するなど旅行ブームとなっていきます。
当時の旅行はどのような感じだったのか、荷物はどのようにして持ち運んだのか?海外旅行に行けたのかなどをまとめてみました。
江戸時代の旅行記・旅行本
日本で旅行ガイドブックが登場したのは、江戸時代だそうです。ガイドブック(道中記)を読むと当時の旅の様子を伺いしることが出来ます。
江戸幕府は、武家・庶民の区別なく人々の移動を厳しく制限した。一方で、街道の整備が進み、長く続いた太平の時代となり、物見遊山の旅を促進もした。富士参詣や伊勢参りなどである。これにともない、道中記と呼ばれる、いわゆるガイドブックが多数登場した。
江戸時代で一番古いとされる道中記は、小島弥兵衛の著のものである。1655年(明暦元年)頃のもので、江戸から東海道を通り京都までの宿間の距離、駄賃等が記載されている。
https://ja.wikipedia.org/ より引用
旅行用心集 八隅芦庵
旅行の日程や旅行時に注意をすることなどが書かれていて、現在の旅行ガイドブックと通じるものがあります。
江戸の旅行風俗を伝えると同時に、旅の安全と楽しみ方を教える心は、刊行から200年近く経った今でも古びることがない。現代にも、海外でも通じる旅の心得が満載。諸国の温泉292ヵ所も案内する。
現代訳 旅行用心集 より引用
東海道中膝栗毛 十返舎一九
江戸っ子の弥次郎兵衛と北八東海道をお伊勢参りまで行く様子を描いた名作です。有名な本で、みなさんも知ってると思いますが実際に読んだことがある人は少ないでしょう。原書を読むのは難しいですが現代約も出版されているので旅行好きなら一度は読んでみる事えおお勧めします。
本書は、江戸期の最大のベストセラーである。放蕩のあげく神田に逼迫していた遊び人弥治郎兵衛と、その食客喜多八の江戸っ子二人組が、借金取りから逃げるため、東海道を辿る旅に出る。道中で繰り広げられる滑稽と醜態の失敗談が、駄洒落、狂歌、各地の風俗、奇聞をまじえながら語られる。今なお日本人に愛読されるユーモア文学の傑作。原作のリズムを伝える現代語で楽しむ。
東海道中膝栗毛 十返舎 一九,麻生 磯次 より引用
東海道五十三次 (浮世絵) 歌川広重
歌川広重が東海道を旅した後に制作された浮世絵。最近、永谷園のお茶づけのおまけとして復活して話題となっています。
『東海道五十三次』または『東海道五拾三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、歌川広重による浮世絵木版画の連作。右の図は保永堂版(1833年 – 1834年)。1832年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。東海道は、将軍在所の江戸と、天皇在所の京都を結ぶ道で、かつての日本の大動脈であり、江戸時代の主要道路であった五街道の中でも、最も重要な街道であった。五街道は、将軍を中心とした国家支配を強化する目的で、江戸期に整備されたものである。
https://ja.wikipedia.org/ より引用
東海道巡覧記 蘆橘堂適志
1745年に出版された、東海道のガイド本。
http://base1.nijl.ac.jp/ で確認できます。
江戸時代の旅行の荷物
江戸時代の旅行の荷物は非常にコンパクトであったようです。風呂敷は現在でも旅慣れた人に多く使われていますね。
文政3年(1820)に刊行された「諸国行程大日本道中指南車」によると、旅先に所持品として
・衣類、股引、脚絆(きゃはん、足の保護目的に、すねにまとった紺木綿の布)、足袋、手甲、下帯(ふんどし)、矢立、手拭、糸と針、扇子、常備薬、鼻紙、道中記、財布、巾着(小銭入れ)、指刀、提灯、蝋燭、合羽、火打石、笠、麻綱(洗濯物をかけるため)などを紹介しています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/ より引用
いったい、江戸時代の人って、どんな物を持って旅をしていたんでしょうか?振り分け荷物というのは、「竹が柳で編んだ四角い籠のような物に手ぬぐいを結びつけ、もう一方の端は風呂敷包みになっている」という形が一番一般的でした。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/ より引用
【振り分け荷物とは】 【道中振分けとは】
江戸時代の旅の交通手段は、徒歩が中心だから、そんな大きな荷物を運ぶことはできなかった。通常、人々は小さな行李「こうり」か風呂敷包みを背負って、旅に出た。行李の素材も、竹や柳など、軽くて丈夫なものが選ばれた。 荷物が多いときは、行李を二つ用意し、手拭いに結び付けて肩にかつぎ、前後に振り分けた。人によっては風呂敷包みと行李を、手拭いで結んで振り分けた。これがいわゆる「振り分け荷物」である。 『江戸散歩』さんより
http://www.jpkameya.com/sub10/matatabi/15.htm より引用
お伊勢参りや日光詣といった「旅行」が流行ったのもちょうどこの時代。風呂敷は旅行かばんとしても広く使われ、浮世絵や絵図の風景にも風呂敷包みを担いだ庶民が街道を行き交う姿が多く見られます。
http://www.kakefuda.co.jp/furoshiki/furoshiki_history.html より引用
旅行時の食事
基本は茶屋や宿で食べるるのが一般的のようですね。
大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。
昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。
http://okwave.jp/qa/q6718198.html より引用
町や村にはいると「食べ物」を売る店もありましたが,今のように沢山のメニューがあるわけではありません.その地方でとれた魚や野菜それに御飯程度のもです.ですから食べそこなった時のために,干した魚や栗,お米などを携行食として持っていました.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/ より引用
江戸時代の旅行時の服装
http://www.city.yokohama.lg.jp/ より画像引用
着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。
http://okwave.jp/qa/q6718198.html より引用
江戸時代の旅の服装としては、図のような服装が一般的ですが、飯田広助家文書の巡礼道中記には、次のような身じたくをこしらえて京都に送り、京都で着替えたとあります。白い負ツル(笈摺(おいづる)袖の無い白衣)・白い長ジバン・白い股引(ももひき)・白いヅダ袋(頭陀袋)・白い笠当(かぶり笠の内側の頭に当たる所につける小さい布団のようなもの)巡礼用の服装と、それ以外の旅の服装とは区別されていたようです。
http://www.archives.pref.fukui.jp/ より引用
女性の旅装は、菅笠か手拭の姉さんかぶり、手甲に脚絆、結わいつけ草履に杖、着物の裾をたくし上げ、その上に大きめの浴衣を着て腰ひもで締め、埃よけとしました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/ より引用
江戸時代の海外旅行
江戸時代は鎖国政策が敷かれ、海外渡航および海外在住の者の帰国を禁じられていましたが、朱印船などで海外に行く人たちがいました。旅行というより海外で永住するような人たちも多くいたようです。
アンコール・ワット 森本一房
森本一房(もりもと かずふさ)は、江戸時代前期の平戸藩士で、父の菩提を弔い母の後生を祈念するために朱印船でカンボジアに乗り渡った際にアンコールワットに落書きを残している。
文字を読み取ることは出来ないが書かれているのは、現在でも確認することが出来る。
日本人初の世界一周 津太夫
船乗りの津太夫(つだゆう)は、1793年に石巻から江戸へ向かう途中暴風に遭い漂流しアリューシャン列島東部のウナラスカ島に漂着した。その地でロシア人に助けられ、紆余曲折をへて津太夫は漂流以来12年目にして61歳で世界一周を成し遂げる。
https://ja.wikipedia.org/ より引用
日本にはイギリスの海洋文学にあたるものがない、といわれてきたが、江戸時代に漂流して帰還した者たちから聴取した、何作もの「漂流記」こそ、日本独自の海洋文学ではないのか。ここに、1793年、奥州石巻を出港し、難破してロシア極東沿岸に漂着した「若宮丸」の漂流聞書き『環海異聞』がある。極寒の辛苦に耐えてロシアに10年、生き残った津太夫ら四人の水夫は、鎖国日本へ開港を促すロシアの使節船に乗船し、日本人初の世界一周の旅に出る。夢に何度も見た故国の地を踏んだ彼らを待っていたのは、厳しい取り調べだった。しかし、彼らは『環海異聞』という貴重な証言を残してくれた……。
漂流記の魅力 (新潮新書) より引用
スペインやローマ、日本人で初めてキューバの地も 支倉常長
支倉 常長(はせくら つねなが)は、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。
遣欧使節として送り出された支倉常長は、キューバの地を踏んだ最初の日本人であり、彼の礼儀正しく誠実な人柄は「至誠の人」「熱誠の使節」として異国の人々から信頼され、尊敬された人物として広く知られています。
http://sendaiikuei-cuba.jp/ より引用
初めてイギリスに上陸 音吉
旅行では無いですが、世界一周以上の旅をした日本人は様々な歴史も絡み大変興味深い人生です。本にもなっています。
音吉(おときち)は、1832年、米や陶器を積んだ宝順丸が江戸に向けて鳥羽に出航したが、途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流しアメリカに流れ着く。その後、日本人として初めてイギリスの地を踏み、その後も数奇な運命をたどっていく。
にっぽん音吉漂流記 (中公文庫) より引用
最初にハワイ諸島に上陸した日本人 平原善松
平原 善松(ひらはら よしまつ、平松善松とも。生年不明 – 文化5年(1808年)6月)は、江戸時代の水主・漂流民。
記録に残っている中では最初にハワイ諸島に上陸した日本人の一人であり、善松が水主として乗り組んでいた稲若丸の遭難は漂流中に外国船に救助される最初の事例となった。
https://ja.wikipedia.org/ より引用
ベトナムの王女と結婚した 荒木 宗太郎
肥後熊本の武士だったが、長崎開港とともに長崎に移り、武士をやめて商人になった。1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の朱印状を得て以来、シャム・安南地方に数度貿易船を出した。宗太郎みずからも乗船、安南国王の一族、阮氏に深く信頼され、1619年(元和5年)には、阮氏の娘、王加久戸売(オウカクトメ)を妻とし、帰国した。1622年(元和8年)には将軍徳川秀忠より新たに朱印状を受け、交趾方面に通商した。荒木船の船標は、円のなかにO・V・Cを組み合わせたものであった。それはオランダ東インド会社の船標を上下逆さにしたデザインであった。